ZENZO'S ZEN ROOM
ZENZO'S ZEN ROOM
臨終カウンセリングを無料で提供
大切な人を失った方の心を癒すグリーフ・カウンセリングも無料で提供
We offer complimentary counseling sessions for the folks who may pass away in the near future. Those who are going through a tough time due to the loss of their loved one(s) are also eligible to request a free counseling session through this Web site.
For more information in English, click English Page tab (upper right).
死についての定義は様々。
Zenzo は以下のように考えます。
肉体の死と精神の死は別(昔から言われている事です)。
このテーマを30年ほど追及してきた結果、
あるカウンセリング・モデルが出来上がりました。
もうすぐこの世から別の世界・次元に行く人の中で
死の恐怖を感じている人がいるなら、
それを和らげるカウンセリングを提供しようと思っています。
※このHPはいかなる宗教団体、組織、法人、超常現象サークル等とも一切関係がありません。
Zenzoは天涯孤独の独り者として単独で活動しています。
Zenzo プロフィール
子供時代から寝ている時に金縛りを経験する事が多く、「目に見えない別の次元」の存在を意識するようになる。
20代:肝炎で6か月間入院中に臨死体験をする。これがきっかけとなってspiritualなものに興味を持つ。
禅、Stuart Wildeの著作物とspiritualセミナー参加を通して「目に見えない別の次元」について深く学ぶ。
30代:Zenについての学術論文をアメリカの学会(National Communication Association年次大会Spiritual communication 部門)で発表。コミュニケーション学、禅、心理学について大学院で本格的に学ぶ。
40代:独自のカウンセリング手法を開発、㈱経済界より著書を出版。同時に心理カウンセリングの提供を開始。
50代:今まで学んだ事、経験した事を統合し、Zenカウンセリングを開発。臨終カウンセリングを無料で提供。
禅の話1
禅の逸話の中には「別の次元」に関するものがいくつかある。
以下の Zen monk ふたりの禅問答はかなり有名なもの。
Joshu: 道(the Way)とは一体何ですか?
Nansen: 日常こそが道だ。
Joshu: 学ぶ事はできますか?
Nansen: 学ぶほど遠ざかることになる。
Joshu: 学ばないとすると、どうやって知る事が出来るのですか?
Nansen: 道は見えるものに属してはいない。見えないものにも属していない。
既知のものにも属していないし、未知のものにも属していない。
探したり、学んだり、名前を付けようとしないことだ。
心を大空のように広げた時に、道にいるのだ。
Zenzoの解釈:
これは禅の主要テーマの一つ、「二元論からの脱却」。「見えるもの、見えないもの」「既知、未知」「名前がある、名前がない」そういった定義から超越しているのが「道」。これはTaosim(道教)でも繰り返し扱われている。「道(the Way)」は万物を統合している法則あるいは存在。
考えてみればこうしている間にも地球は奇跡的に機能していて、雨が降って地面に落ちて、岩に磨かれて湧き水になって地球を潤している。地球の Eco system は奇跡的に機能している(人間がものすごく迷惑をかけてダメージを与えているにもかかわらず)。地球も太陽もグルグル回っていて、宇宙はものすごい勢いで膨張している。すべてが奇跡的にうまく動いている。これを全部うまく機能させてるもの、それが道。それを神と呼ぶ人たちもいる。
この禅問答を人の死という点から考えてみる。「生、死」という二元論で考えると、「死」は生と反対のもので、恐怖の対象かもしれない(「自分の存在が無になる」「何も残らない」等)。
しかし、「生、死」という二元論を超越して、「別の次元に移住する機会を与えてくれるのが死」と考えるならば、それほど恐れる事はないのではないかと思う。実際死を「別の次元への移行(transition)」と表現する人が沢山いた(いる)のも事実。
禅の話2
次は禅の逸話をひとつ。Zen monk Mumon によるもの。
Mumon: 周りの世界の音や形に引きずられないように気をつけなさい。
「声を聞いて理解する、目に見えるものを見て納得する」というのは誰にでもできることだ。
声を耳で聞くのではなく、眼で声を聴いてこそ、声と一体になったと言えるだろう。
Zenzoの解釈:
禅問答では「音」に関するテーマが多くある。「空をたたいて音を聞いてみなさい」「二つの手で拍手をする時の音ではなく、一つの手で拍手をする時の音はどんなものか?」など、音は今までの思考を超越する際のきっかけとなるものとして登場する。
Zenzoは昔ある短期大学で授業をしていた時、音声言語と手話の2つを使っていた事がある。健聴者と Deaf の学生の混合クラスだったので、音のする言語と音無し言語(手話)の両方を使っていた。その時に悟りに近いものを得た。それは、「音は耳で拾うこともできるし、眼で読むこともできるし、体の別の部分で感じることもできる」という事。こういった経験のおかげで、このMumonの話はとてもよく分かる。ちなみにこの「音は耳だけではなく、体全体で感じるものだ」というテーマは、Deaf musician の Evelyn Glennie が素晴らしいperformance とともに取り上げ、解説してくれている(TED.Talkで閲覧可能)。
この「眼で声を聴く」というテーマを別の視点で見てみる。例えば自分のご先祖とか、この次元からいなくなった存在から「何らかのメッセージが視覚的に」示されたとする。その時に「おそらくこういう事を言っているのだろう」と自分の力で推測できれば、それは悟りを得た禅の師匠たちと同じレベルにいるのかもしれない。
禅の話3
最後に禅の逸話を一つ
禅の師匠 Bassui は死を迎えつつある弟子に以下のような手紙を送ったと言われている。
この世での死は終わりを意味しない。雪の結晶が空気に溶けるのと同じように、あなたの存在は永遠に続く。
Zenzoの解釈:
禅は繰り返し「二元論からの脱却」を扱う。「見えるもの、見えないもの」「存在、無」そういった定義を超越できる、またそれを「意識して」超越できるのが人間という存在。
考えてみれば生命というものは実に不思議なもの。最初にごく小さな細胞が集まって「生命」が生まれ、細胞が増殖を繰り返してものすごい数になり、骨や臓器を形成して「独立した生物」としてこの次元に誕生する。しばらくして骨や臓器が機能しなくなって寿命を迎えると、肉体の死を迎える。
しかし、火葬した後に残った骨(お墓に収められた骨)は、確かに存在している。もしその中に何らかの思いが残っていれば、それは「生きているもの」と捉えることもできる。さらに、骨、お墓といったものに紐づけられた「強い思い・思念」のようなものが存在するならば、それはこの次元での常識・化学では証明できなくても「生きているもの」と捉えることもできる。「生と死の境界」はあってないようなもの。
※田坂広志 著『死は存在しない - 最先端量子科学が示す新たな仮説』(光文社新書、2022年刊)を読むと、「生と死の境界」という概念、死という概念それ自体が人工的・恣意的なものにすぎない事に気づく。